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[ 教育こそ日本最大の資源である。]
[ (1) 教育勅語について (2) 新しい歴史教科書について (3) ゆとりの教育について ]

(2)新しい歴史教科書について

 平成十三年の夏、マスメディアは歴史教科書採択問題で異常とも思える盛り上がり?を見せました。教科書展示会が6月から7月にかけて行われ、私も7月初旬に閲覧に行ってきました。時間の関係上一番問題となっている近現代史の部分のみ、8社(日文・帝国書院・清水書院・教育出版・大阪書籍・東京書籍・日本書籍・扶桑社)を読み比べてみました。驚いたことにほとんどの教科書が、自虐史観にてとても正視に耐えない内容でした。その中でも日本書籍の内容はどこの国の教科書なのか、疑ってしまうほどの内容で、不謹慎ですが社名を中国出版か韓国出版に変えた方が良いのでは、と思える程のものでした。話題の扶桑社の教科書ですが、読んでいて何がおかしいのか、わかりませんでした。私にすればとても中立的な書き方で、文体自体もひとつの物語を読んでいるようで、秀逸な出来映えでした。ただ難点をあげれば他の教科書より、見栄えがあまり良くなかっただけで、内容については良くできた教科書だと思いました。ただ、その後の自主訂正は誤表記以外は必要ないと考えます。
 歴史教科書採択問題では、A新聞社とA放送局による言論弾圧ともとれるような妨害工作があり、実際に私はA放送局のある番組の報道に対し、疑問を抱き放送局に電話をして内容に対しての質問をしましたが、いっさい答えてくれず、けんもほろろに電話を切られてしまいました。確かに報道機関に対したくさんの問い合わ
せ等、あるのはわかりますし、いちいちそれらに対して対応していられないことは十分承知しています。こちらも丁寧に質問を致したのですが横柄な電話での対応にがっかりしたのと、報道からの一方的な、言論の暴力ではないかと思われるのと、思想誘導的な戦前の体質となんら変わっていない事に恐怖さえ感じました。


 中曽根元首相が自著の中で述べている、『歴史を正視しえない民族は、他国民から信頼も尊敬も受けることはありえない。われわれは自己の歴史の恥部から目をそらすことなく、これを直視する勇気と謙虚さをもつべきである。そして、そこからしかるべき教訓をくみ取って将来に向かい国民を教育し、正しく導くことが戦後の政治家に与えられた当然の責務だと考える。』と。
 しかしながらこの当然の責務がいまだ果たされていません。日本人はいまだに自分たちの正史を持ち得ていません。未来に向けて、再生の道はいつの時代にも歴史の中にあります。歴史に対してなおざりにした国は滅びます。中国・韓国の歴史教科書は、国で定めた国定教科書のみです。内容については自国の神話的な寓話からはじまり、いかに自国が他国に比べ優れた民族であり、偏狭とも思えるナショナリズムは読んでいて、これではいつまでたっても日本と本当の友好関係など出来ないと思えます。
 それに比べ、日本の教科書には検定制度があり、それをクリアーした教科書であれば、自由にどの教科書でも使用できます。ひじょうに民主的な制度です。自国には自国の歴史意識があり、他国との安易な歴史認識の共有などあり得ません。
 それにしても、私たちが学んだ歴史教科書はこれほどひどかった記憶はありません。今日の歴史教科書問題の元凶は、昭和57年におきた第一次教科書事件が発端でした。(侵略進出誤報事件)これに対する中国政府の非難に、韓国政府、他のアジア諸国も同調し、当時の宮沢官房長官が『教科書検定基準に近隣諸国条項を加える』との談話を発表し、一連の批判に対し謝罪したことから、これ以降近隣諸国からの露骨な内政干渉がおきました。日本政府は以来アジア諸国から非難があれば、事実関係がどうあれ、謝罪するという国益を考えない謝罪外交を続けてきました。このときから日本の歴史教科書は、以前にもまして自虐的な贖罪意識を植え付けさせる、およそ自国の歴史教科書とは呼べない形態に改ざんをされてきました。このへんできちんとニュートラルな方向へ戻して行かなければ、未来永劫子々孫々にわたるまで謝罪をし続ける事になってしまい、日本国民としての誇りもアイデンティティも持てなくなってしまうのではないでしょうか。ぜひ、日本政府に中国・韓国の歴史教科書の検定をして頂きたいと思います。それが対等な国同士の対等な関係なのではないでしょうか。


「ゆとりの教育について」

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