bgm海ゆかば

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[ 時代認識のずれ、今の価値観では語れない。]
[ (1) 近代日本史の前提 (2) 日清・日露戦争 (3) 大東亜戦争 (4) 極東軍事裁判とは ]

(3)大東亜戦争

大正3年(1914年)ヨーロッパで第一次世界大戦が起こると、日本はこの機を利用して中国への勢力を伸ばしていきました。また、戦争が長引くにつれ、兵器その他の軍需品の注文が連合国から殺到し、ヨーロッパの商品がアジアに供給されなくなり、日本は独占的な地位を得たため、未曾有の好景気をもたらしました。しかし、これにより都市部への急激な人口流入と貧富の差の拡大がもたらされ、社会体制に不満を持つ人たちが急増してきました。
 大正8年(1919年)大戦の処理を行うパリ講和会議において日本は、ドイツが中国に持っていた権益を確保し、国際連盟においては常任理事国となり、当時の一等国に数えられるようになりました。しかし、パリ講和会議で日本が提案した念願の人種差別撤廃法案は、賛成多数にもかかわらず、アメリカの反対により実現しませんでした。これにより、日本は差別されてきた有色人種の利益の代表としての立場が明確になりました。
 一方国内においては、大戦時の過剰な投資により経済は危機に瀕するようになっていました。昭和2年(1927年)に始まった金融恐慌でそれが一気に表面化し、その後の世界恐慌の余波に巻き込まれ、経済的な逼迫感はピークとなりました。当時、欧米列強はそれぞれ他国からの輸入品には多額の関税を課すなどの政策により、自前の経済圏を形成していく事で経済の建て直しを図っていました。資源に乏しく国内消費力が落ち込み、貿易によって経済を立て直さなければならない日本にとっては、まさに満州が日本の生命線であると広く認識されていました。
 そういった中で、中国は清朝崩壊後(辛亥革命)混迷を続けていましたが、中華民国を軸にしてまとまりつつあり、本来漢民族の土地ではない満州に割拠する軍閥がこれに呼応し、徐々に日本の権益を脅かすようになって行きました。これに対し危機感を持った日本の関東軍は、昭和6年9月に軍事行動を起こし(満州事変)、満州国を建国して権益をより強固なものにしました。これにより一時的に日本経済も復興の兆しが見えてきた事により、国内においては関東軍の行動を英雄視し追認する空気が支配してきました。これは満州の権益を十分維持出来ない政府や経済危機に対して有効な対策を立てられない腐敗した政党、財閥などに対する国民の不満が表面化したものとも言えます。その後の軍部を中心とした反議会主義的な強力な体制が望まれ実現されていく要因にもなりました。
 それ以降中国においては、日本に対抗しようという動きが強まり、一方日本国内でも軍部が政治を支配するようになり、中国との戦争も辞さずという意見が強まっていきました。まさにマッチ一本投げ入れれば爆発しそうな緊張感が続く中、昭和12年7月、廬溝橋において軍事衝突がおこりました。日本は短期間で決着をつける目論見でしたが、中国の抵抗も激しく、結果として全面戦争へと発展していきました。


 この中国との戦争が拡大していく事と平行して、太平洋を挟む反対側のアメリカとの対立も顕在化し、多方面で色濃く影響を及ぼしていきました。
 そもそもアメリカとの対立の歴史は、日露戦争まで遡ります。それまで他の欧米列強と比べて新興国であったため、太平洋への勢力の拡大を急いでいたアメリカは、やはり太平洋に進出しようという南下政策をとるロシアを警戒し、それに対して多少なりとも障害になればよい、という意味で日本を好意的に見ていました。しかし、日本が予想以上に有利な戦いをしたことにより、中国の権益獲得を目指すライバルとして意識するようになりました。日本人の移民に対する差別が行われるなど、排日の動きもアメリカ国内で急速に強まっていきました。また、アメリカ国内で抱えていた人種問題の観点からも、日本が欧米列強に対抗して勢力を伸ばしていく事を、差別されていた有色人種達が好意的に受け取った点も、アメリカの白人社会では好ましく思われませんでした。
 それ以降、第一次世界大戦時、一時的に和解する動きはあったものの、後は一貫してアメリカは日本の対外進出を牽制する行動をとりました。
 第一次世界大戦ではヨーロッパの列強は国力を消耗し、それに対して自らの国土は無傷で武器などの大いなる輸出国として潤ったアメリカは、世界のなかでの発言力が増していきました。この力を背景に自国の利益を優先させるよう国際世論をコントロールし、日本が世界から孤立するように導いて行きました。その最たるものが大正10年(1921年)のワシントン会議でした。この会議においてアメリカは自国が中国に進出する事を安易にするために、かねてから主張していた中国の主権尊重、領土保全、門戸開放、機会均等、関税率の拡大などを認めさせました。そしてそれ以降の日本の大陸進出を事あるごとに、条約違反と批判するようになりました。また、同時にアメリカにとってやっかいな存在だった日英同盟を破棄させました。


 アメリカとしては、早い時期から直接日本と戦う事を想定し、仮想敵国としての研究を重ねつつ、日本との戦争も辞さずという姿勢で、その利己主義の権化たる国際正義を持ち出して挑発をし続けました。ヨーロッパで起こった紛争には一切干渉しようとせず、ソ連がモンゴルを衛星国化しても全く沈黙を保ち、孤立主義政策を標榜しているにもかかわらず、日本の大陸政策については事あるごとに、干渉するということがそれを物語っていました。
 日本では、アメリカと直接戦った場合に勝つ事が難しいと判断する意見が強かったため、戦争を避けようとの外交交渉も再三持ちかけましたが、対米強硬論も強く国論は一致していませんでした。結果として日本が出す主張もアメリカから出される主張も強硬なものであり、互いに相手が譲らない限り軍事行動も辞さず、という姿勢を崩しませんでした。日本が使用する外交暗号を解読していたアメリカ政府は、交渉の場に出る前に日本政府の方針などを知る事ができ対応策を練る事が出来ました。譲歩してまで交渉をまとめる意志がないアメリカは、巧みに交渉を長引かせ、一方で有力石油資本を握るイギリスや、当時ゴムや鉱物資源を産出するインドネシアを植民地として支配していたオランダと、共同戦線(ABCD包囲網)を組み、近代産業国家を運営する上で必要不可欠な資源を日本が調達できなくなるような戦術で追い込み、日本がしびれを切らすのを待ちました。
 追い込まれた日本は外交交渉を断念し、ついに昭和16年12月8日、ハワイオアフ島真珠湾のアメリカ軍基地を攻撃し大東亜戦争が始まりました。アメリカ政府は日本が攻撃を開始する事を予知していましたが、日本の米国大使館の不手際で攻撃開始時に交渉打ち切り通告がされていなかった事から、一般には日本の奇襲攻撃と宣伝し、反日本という事で世論をまとめる事に成功しました。(リメンバー・パールハーバーを合言葉に国をまとめました。)
 この開戦の日程は攻撃の有利さという戦術を最優先させたものでしたが(日曜日で艦艇が多数停泊し、警戒が手薄であるという事と、飛行機の発着艦に都合がいい天候)、石油の備蓄量が一年分を切り、このまま手をこまねいていては戦闘不能状態になるという海軍の焦りの結果であり、戦略的に見ると大きな問題がありました。
 その第一の理由は、先に書きました日本との戦争に関してアメリカの国論を一致させてしまった(当時のアメリカ国内は、反戦論がかなり多くありました。)という事です。次に時を同じくしてドイツ軍がソ連との戦いで後退し始めた事でした。日本の目論見としてはドイツが早期にソ連とイギリスを屈服させ、アメリカを孤立させて優位な立場で講和するというものでしたが、早々にそれが崩れた事になりました。むしろ、ヨーロッパ戦線に直接参戦する事に消極的だったアメリカ議会が(第一次世界大戦同様、漁夫の利を得ようと考えていました。)、日本の同盟国であるドイツを攻撃する事を了解した事により、さらにドイツを追い込む結果となりました。まさに日本のアメリカへの攻撃開始はイギリス、中国、ソ連などが待ちに待っていた朗報となってしまいました。


 開戦時において、工業生産力で約80対1という大差のあるアメリカと戦うにあたって、直接アメリカ本土を攻撃占領するすべをもたない日本が勝利するためには、緒戦から勝利を続けアメリカの国論が分かれるのを待ち、停戦交渉へ持ち込む事を狙うしかありませんでしたが、日本が予測したよりも早くアメリカが反攻を開始し、消耗戦という戦略に引きずり込まれて、各方面において後退敗退を続けて、ついに昭和20年8月14日ポツダム宣言を受諾して、翌8月15日玉音放送にてそれが国民に伝達されて戦争が終結しました。




「極東軍事裁判とは」

 

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