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[ 時代認識のずれ、今の価値観では語れない。]
[ (1) 近代日本史の前提 (2) 日清・日露戦争 (3) 大東亜戦争 (4) 極東軍事裁判とは ]

(2)日清戦争・日露戦争

(a)序論

 まず地政学的に日本を含む東アジアを検証してみます。日本は東アジアのはずれに位置し、大陸(ユーラシア大陸)から朝鮮半島が日本に向けて突き出しています。当時、仮に日本に対して敵対的な大国が朝鮮を支配下にすれば、日本を攻撃する絶好の前線基地になる可能性があり、島国日本は自国防衛が非常に難しいと考えられていました。
 当時、朝鮮に対して宗主権をもっていたのは中国(清国)でした。それ 以上の脅威は、不凍港を求め南下政策を進めていた大国ロシアでした。ロシアは1891年にシベリア鉄道を着工し、日本にとっては、その脅威が差し迫っていました。日本においては、ロシアの影響力が朝鮮におよぶ前に、朝鮮に中立国としての条約を各国と結ばせ、中立の保障のために日本の軍備増強を進めなければならない、との考えがありました。
 他方、清国は、別のとらえ方で東アジアの情勢を見ていました。清国に対して長い間、朝貢していた琉球が明治12年(1879年)日本の領土として、沖縄県になった事は清国にとっては、大きな衝撃でした。また、もう一つの朝貢国ベトナムが、1884年清仏戦争によって清国が破れ、フランスの支配下になってしまいました。こうして朝貢国が次々と無くなる事は、清の皇帝の徳の衰退を意味し、中華秩序崩壊の危機を明らかに示す事でした。清国は、最後の朝貢国の朝鮮だけは失いたくなく、日本を仮想敵国と考えるようになりました。
 日本は、朝鮮の開国後に近代化を助けるため、朝鮮の軍政改革を援助しました。朝鮮が列強の支配下に服さない自衛力を持った近代国家になることは、日本自身の安全保障にとっても重要でした。しかし、1882年軍政改革に乗り遅れた一部朝鮮軍人の暴動(壬午事変といいます。)が発生しました。清国はこれに乗じて、数千の軍隊を派遣してただちに暴動を鎮圧して、日本の影響力を弱めました。また1884年には日本の明治維新にならって、近代化を進めようとした金玉均たちのクーデターが起きました。このときも清国の軍隊は、親日派に対し徹底的に弾圧を行いました(甲申事変)。 さらに1886年には清国は北洋艦隊を、親善名目で長崎に派遣し、軍事力を見せつけて日本に対して圧力をかけました。


(b)日清戦争

 1894年(明治27年)、朝鮮の南部において東学党の乱(甲午農民戦争)とよばれる、農民運動が起こりました。東学党とは、西洋のキリスト教(西学)に反対する宗教(東学)を信仰する集団でした。彼らは、外国人と腐敗した役人を追放するために立ち上がりました。一時は首都漢城(現在 のソウル)に迫る勢いをみせました。わずかな兵力しか持たない朝鮮は清国に、鎮圧のための出兵を求めましたが、日本も甲申事変後の清国との申し合わせに従って、軍隊を派遣しました。これをきっかけに日清両国軍隊が衝突して日清戦争が始まりました。
 戦場は朝鮮のほかに、南満州などに広がり、陸戦においても海戦においても日本は清国に圧勝しました。軍隊の訓練、規律、兵器の装備が勝っていたことが、日本の勝因としてあげられますが、根っこの部分で日本人が、自分たちの国の為に献身する国民としての意識づけが成されていた事が、その背景にはあるのではないでしょうか。
 1895年(明治28年)、日清両国は下関条約を結びました。清国は朝鮮の独立を認めるとともに、賠償金3億円(当時の日本政府の財政収入の約3倍にあたります。)を支払い、遼東半島と台湾(当時の台湾は中国においても中華思想の及ばない、化外の地といわれ重要視されていなかった)などを日本に割譲しました。
 しかし、日本が簡単に列強諸国と対等にはなれませんでした。南下政策で東アジアに野心をもつロシアは、ドイツ、フランスを誘い、強力な軍事力を背景として、遼東半島を清国に返還するよう日本に迫りました。これが三国干渉と言われています。清国に勝利したとは言え、当時の日本にはこの三国に対抗できるだけの力はありませんでした。日本はやむを得ず、一定額の賠償金と引き替えに、遼東半島を手放さざるを得ませんでした。そこで当時の日本は、官民を挙げてロシアに対抗するための、国力の充実をつとめるようになりました。(臥薪嘗胆を合言葉としました。)
 日清戦争は、欧米流の近代立憲君主国家として出発した日本と、中華帝国(清国)との対決でした。『眠れる獅子』とよばれて、その底力をおそれられていた清国が、世界の予想に反して新興国の日本にもろくも敗れ、古代から続いた東アジアの中華秩序はもろくも崩壊しました。その後、列強諸国は清国に群がり、それぞれの租借地を獲得し、中国進出の足かがりを築いていきました。


(c) 日露戦争

 三国干渉の後、日本は同盟をロシアとイギリスのどちらかと結ぶべきかの選択を迫られました。と言うのも当時の日本では単独で自国を防衛する事は不可能だったからです。
 両国のどちらが日本の国益にかない、独立を確保するのに役立つかを見極めることは、簡単な事ではありませんでした。清国のアヘン戦争の時代を良く知る元老伊藤博文らは、ロシアと親露政策を結ぶ事を、小村寿太郎ら外務省幹部や桂太郎首相は、イギリスと親英政策を結ぶ事を主張しました。
 両者の論点の相違は、ロシアについての見方でした。ロシアは1900年に清国でおこった義和団事件を口実に、満州に約2万の兵を送り込み、そのまま居座っていました。ロシアが満州にとどまって朝鮮半島に出てこないよう、ロシアとの話し合いが付くのか、ということが最大の争点でした。
 今の外務省官僚とは、国を思う心、国益を第一義に考えるいわゆる公僕としての意気込みが、異なるようで寂しい気持ちになってしまいます。
 論争の決着をつけたのは、小村寿太郎の提出した意見書でした。小村意見書は、日露条約と日英条約の利害得失を論じ、日英条約の方が優位であると主張したものでした。
 小村意見書は、1901年日本政府の方針として採択され、それに基づいて英国と交渉した結果、1902年(明治35年)日英同盟が結ばれました。当時南下政策をとるロシアは、朝鮮半島に進出する意図を持っていましたので、小村の判断は正しかった事がわかります。日英同盟はこの後20年間、日本の安全と繁栄に大きく寄与致しました。
 ロシアは当時、日本の約10倍の国家予算と軍事力を有していました。ロシアは満州の兵力を増強し、朝鮮半 島北部に軍事基地を建設しました。このままにしておけば、ロシアの極東における軍事力が、日本に到底太刀打ち出来ない位になってしまう事は明白でした。日本政府は手遅れになる事をおそれて、ロシアとの戦争やむ無しとの決意を固めました。
 1904年(明治37年)2月、日本は英米の支持を受けてロシアとの戦いを迎えました。これが日露戦争の始まりです。戦場となったのは朝鮮と満州でした。1905年(明治38年)日本陸軍は苦戦の末、旅順を占領し、奉天会戦に勝利しました。
 ロシアは劣勢を跳ね返すために、バルチック艦隊を派遣する事を決め、約40隻の艦隊は、アフリカケープタウン沖を迂回し、インド洋を横切り約8ヶ月をかけて日本海にやってきました。東郷平八郎司令長官ひきいる日本の連合艦隊は、巧みな戦術と兵員の一致団結した志気で、当時世界最強と言われたバルチック艦隊を全滅させ、世界の海戦史に燦然と輝く驚異的な勝利を収めました。これが世に言う日本海海戦です。
 ところが、日本海海戦に勝利したときには、すでに日本は外国からの借金と国債でまかなった軍事費(当時の国家予算の8年分にあたります。)を使い切っていました。長期戦になれば、ロシアとの国力の差が確実にあらわれ形勢が逆転する事は明白でした。アメリカ大統領のセオドラ・ルーズベルトは、日本に最も有利な時期を選択し、日露間の講和を仲介しました。アメリカのポーツマスで開催された講和会議の結果、1905年(明治38年)9月にポーツマス条約が締結されました。この条約で日本は、朝鮮(1897年朝鮮は国号を大韓帝国と改めました。)の支配権をロシアに認めさせ、中国の遼東半島南部の租借権を取得し、南満州にロシアが建設した鉄道の権益を譲り受け、樺太の南半分の領有を確認させました。一方、戦争を続けようにも費用が限界を超えている事を知らされていない国民の一部は、日比谷焼き打ち事件と言われる暴動をおこしました。
 日露戦争は、日本国の存亡をかけた壮大な国民戦争でした。日本は幸いにもこの戦争に勝利し、自国の安全保障を確立しました。近代国家として誕生したばかりの有色人種の国、日本が当時世界最大の陸軍大国であった白人帝国ロシアに勝利したことは、当時世界中の抑圧された民族に、独立への大きな希望を与えました。しかしながら、他方において、白色人種を脅かす事を警戒する黄禍論が欧米に広がるきっかけにもなりました。


「大東亜戦争」

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